2009年の幕開けは,「不惑」の年齢になって迎えました。「不惑」とまではいかないかとは思いますが,まあ大きな節目ではあるので,それを目指していきたいという感じですね。年明けは悪化した風邪ひきのままという状態でしたから,具合が悪いながらいろいろ考えていたら浮かんできたことなんかもあって,そういうことも含めて書きたいと思います。
ユング心理学で「個性化の過程」というのがあります。ユング心理学では心の中心を,意識の中心である「自我(ego)」と無意識を含めた心全体の中心である「自己(self)」とに区別していて,この「自己(self)」とつながっていくことを「自己実現」とか「個性化の過程」といいます。この「自己実現」という言葉は,現在ではかなり違う意味合いになってしまって「自我実現」と誰かが表現していたと思いますが,そんな捉え方をされているので,僕は「個性化の過程」という言い方を好んでいます。「個性化の過程」とは,深い意味で本来の自分自身になることで,自分らしくいられるようになることと言ってもいいように思います。この「個性化の過程」と「不惑」というのは,とてもつながっているような感じが,僕の中ではしているんです。
人間は,自分で身につけてきた自分自身の傾向と,ついつい闘ってしまいます。自分の嫌な部分と対峙して,それを何とかなくそうとか,克服しようとか,いろいろ努力したり葛藤したりしますよね。でも,それを何十年としていても,そんなに自分の嫌な部分って消えていかないんじゃないでしょうか。そのやり方って,たぶん家族療法などでいう「偽解決」に近い。もし,その嫌な部分を,
自分の一部として受け容れてあげられたら,それは質が変わってくるんじゃないかと思うんです。対峙している限り,それは敵として映る。でもそれは,あくまでも自分の中にある自分の一部なのだから,投影に似ている。映し出された自分の影を見て,「嫌だ!そんなの私じゃない!」と叫んでいるかのようだ。でも,それを自分の一部として,影ではなく実体(実態でもある)として受け容れることができたら,きっと見え方が変わってくる。自分自身の一部として受け容れて見え方が変わってきたら,そこには自分に必要な何かがあることが見えてきて,それを自分の中に統合することができていく。上手く伝わったかどうかはわからないけど,これが恐らく「個性化の過程」の本質だろうと思います。
このように考えると,「個性化の過程」というのが完成すれば「不惑」になれるのだろうと思います。なんだか,「不惑」ということを考えて,この「個性化の過程」を思うと,「ああ,それをやっていけばいいんだ」と思って何か楽になったような気がしました。自分にとってもクライエントさんにとっても。言うほど簡単なことでないのはわかっているんですけど,簡単に言ってみると楽になります。「自分自身を受容していく」ということを考えると,修士論文で研究したテーマである(身体障害者の)「障害受容」(という言葉は嫌いだったんですけどね)も,「自分自身を受容していく」ことですし,障害を受け容れるということと,自分の嫌な部分を受け容れるということは,プロセス的には同じなんだろうと思います。もちろん,程度の違いを無視するつもりはなく,身体に限らず,一般に障害と言われるような困難を抱えていくことの大変さはよく承知しているつもりです。それでも,苦しみの大きさというのは,一般的な基準で「○○に比べれば大したことはない」とは片付けられない,量ではなく質の問題を孕んでいるので,あえて言います。みんな,「自分自身を受容していく」プロセスを生きているのだと。
あ,そういえばタイトルは「抱負」でしたね,今思い出した(笑)。人生の後半に入った,ユング的に言えば「人生の午後」に入ったわけなので,今年は「自分自身を受容していく」ことを意識していこう,そして自分のカウンセリング/心理療法にも活かしていこう,ということです。もう一つ,「身体」というのもあるんですが,また書きますね。