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Blogger's Avatar  2009-11-18 2:43
 相変わらずというか,内的にはいろいろ駆け巡っているけど,仕事は仕事で滞りなくやってます。昔は仕事のことがプライベートの時間帯に入ってきて大変になる時期もあったけど,今では割と切り替えられるようになった。この切り替えができないと続けるのは結構大変だと思うし,臨床の現場に入っていった時のひとつの壁になる人も多いかもしれない。逆に,プライベートの時間帯に取り組む内的な作業の残滓が仕事の中に入ってくることは,前回書いたようにカウンセリング/心理療法の場ではそれを自覚していることが重要だけど,自分の中で大きな流れが起きているときは特に注意しないと,逆転移などの形でセラピスト側の揺れが大きくなるなあと感じてます。
 さて,今までにも何度か,何か技法を用いると考えるときに何を用いるかではなくて,セラピストがどういうあり方で技法を用いるかが重要ということを書いたことがあると思う。でも,ケース・カンファレンスなどで事例を扱うときには,どうやら「セラピストがどう存在していたのか」に焦点があたることは少なくて,技法的に「何をしたのか」「どう分析したのか」ということに主に焦点が当たる。まあ,その方がわかりやすいし,議論の対象にはなりやすい。僕だって,学会発表の時にはそういう視点で参加者と共有できる形で発表するわけだし。セラピストの構えみたいな部分は,どうも「治療目標」みたいなところに集約されるのだけど,ここにこだわりすぎるとセラピストが対象化されすぎてしまって,「存在」というものがぼやけてしまう感じがする。
 研究というのは基本的に客観的な見方をしようとする。「セラピストの存在」なるものは,根本的には主観的にしか捉えようがないものだろうから,どうしても技法的な部分に焦点が当たる。全体で共有しようとするときに,それは避けられない。客観的に見えるような形にしなければ,全体で共有することは難しい。でも,技法として何を用いたのか,どのように分析したのかということは,本質的には重要ではなくて,そこに「セラピストの存在」が関わることで重要になる。だから,セラピストがどのように存在していてその技法や分析を行ったかという全体が見えてこないと,事例の中で起こっていることは形骸化してしまう。恐らくは,優れた臨床家はそこを重視しているので,研究で共有するという方向で客観的に捉えようとし過ぎる部分に危惧を抱くのだろう。
 研究分野では文章という形にすることが多い。まあ学会発表や事例検討会は口頭の部分もあるけど,それでも多くは文字情報を用いる。文章化するということは,ある種の客観化の作業なので,僕自身の戒めでもあるのだけれど,どうも客観的な視点が強くなってしまうという宿命をもっているような気がする。まあ,セラピストの主観ばかりに傾いているような文章や発表を目にすることもあって,それはそれでどうかとは思うので,文章化する者の構えの問題かもしれない。そうだ,臨床の生の感覚的なモードと,研究の事例を対象化するモードの間に,大きな隔たりがあるんだ。これは,セラピストがどう存在して技法などを用いるのかというテーマに似ている。セラピストが事例とどう向き合っているのかということになるんだ。
 ・・・なんか,もう少し違うことを書くつもりだったんだけど,書いているうちに僕自身の思考の中に入ってしまった感じになっちゃった。まとまってないけど,これもブログっぽいライヴ感がある気がするので,このままアップしちゃいます。

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