今年の心理臨床学会の年次大会は東北大学で,久しぶりに関東から離れる感じ。4回目となる学会発表が決まって,初めて関東から離れての発表で,期待と不安が入り交じったような感じ。仙台は初めてだし,緊張する感じもあったり,放送大学時代の恩師に会える予定なので楽しみでもあったり,なんか複雑な感じ。テーマは,3年連続になる,アスペルガー障害(傾向)のプレイセラピーで,今回は関係性とかセラピスト自身の心理的姿勢といったことが中心になる予定。9月3日の10時30分と,金曜日の一番最初の発表なので,参加者がまだ出てこられない時間になり得るから,少なめになりそう。学会員の方はぜひ見に来てください〜
プレイセラピーは,遊びを通しての関わりになるので,端から見ると遊んでいるだけのように見える。教育相談などで,保護者が子どもから様子を聞いたりして遊んでるだけだと知って,最初は怪訝な表情をされる人もいる。でも,プレイセラピーの意味を説明したり,その機会がなくても,何度か通っているうちにそれまでとは違う形で子どもが変わっていくのがわかってくる。そうすると,保護者も何も言わなくなるし,具体的にはわからなくても,子どもが生き生きとしてくれば何か意味があるのだと感じて,積極的に連れてくるようになる。まあ,中には勉強やトレーニングをさせるという考えが強い保護者もいて,なかなか噛み合わなかったりということもあるし,全部が全部こんなふうに流れるわけじゃないけどね。子どもは遊びという世界の中で育っていくので,勉強やトレーニングを遊びより優先させると,たとえ大人にとって扱いやすい子どもになったとしても,どこかでその歪みが出てくることが多い。
勉強やトレーニングが悪いわけじゃないんだけど,子どもが成長していくための手段のひとつとしてじゃなくて,それ自体が目的になってしまうと,だいたいおかしなことになるように思う。遊びも,子どもが成長してくための手段といえるかもしれないけど,より子どもがいるイメージの世界と親和性が高いので,手段という側面が薄れる。だいたい,こういう風に遊ばなければいけないなんていう規定はどこにもないから,「手段」という表現になじまない。勉強やトレーニングが手段だと考えて,子どもが成長していくことを目的とするなら,その手段と目的をつなぐものは「関係性」だ。親と子ども,教師と子ども,セラピストと子ども,そこにどんな関係性が築かれているかが,用いられる「手段」の質を決めていく。手段が目的となってしまい,関係性が置き去りにされてしまうと,外形的にしか身につかない。勉強が楽しいのは,例えば小さい頃にできるようになったことを,どんな小さなことでもお父さんお母さんが無条件に喜んでくれた,その延長だったりする。そんな関係性が,テストの点や偏差値という紙に書かれた数字とそれを見る保護者の関係性に変わっていたりする。子どもはどこにいたらいいんだろう?
プレイセラピーは,遊びを手段として用いているといっていい。でも,遊びを通して,子どもがいるイメージの世界を共有するという関係性をそこで築いていく。子どものいるイメージの世界に,大人であるセラピストが自らの子どもの心を呼び覚まして入れてもらうことだ。その世界を共有して,イメージの世界を安心して広げられる場を創っていく。その世界の広がりとともに,子どもの心は成長していく。セラピストがそういう関係性を築いていこうという心理的姿勢をもつことがなければ,プレイセラピーをやること自体が目的になってしまえば,それは普通の遊びと変わらなくなっていく。これは,恐らくすべてのカウンセリング/心理療法に当てはまることだと思う。ただ,プレイセラピーほど,その「手段」としての質が,さらには「関係性」の質が問われる技法もない。だからこそ,プレイセラピーは,心理療法の基本ともいわれるし,基本であるが故に難しいものでもある。