夏休みは大きなイベントがあって,その疲労回復とでほとんどつぶれました。その分,リフレッシュはできて,学会発表の準備がようやく始まったという感じ。いろいろと考えを巡らせているところです。事例研究なので,事例を通して発表するわけだけど,それをどういう方向でまとめるかは,大まかには見えていても実際にまとめていく過程で変化が出てくる。自分と事例研究の間にある関係性のあり方は,ある種の自律性をもっているような気がする。どういう形で帰結するか,楽しみでもあり,産みの苦しみでもある。その結果は,できれば実際の発表でご覧ください。というわけで,学会発表に向けてプレイセラピーのことを考える一環で,このブログでも書いてみたいと思います。
プレイセラピーの枠ということを考える中に,「限界設定」ということがある。これは,プレイセラピーに限られた考え方ではなくて,境界例の治療論でもよく出てくる。簡単に説明すると,クライエントさんの行動などに何らかの制限を設定することで,ここまではいいけどこれ以上はダメというような,線引きをすること。臨床的には,面接構造上の自我の枠(=守り)をきちんと設定することで,水準的には自我の守りが弱いクライエントさんを守り,その枠の中で安全にカウンセリング/心理療法を展開していくために必要になってくる。プレイセラピーの限界設定としては,遊びの展開があまりにも破壊的だったりする場合に,セラピスト側が限界を設定することで,子ども自身もセラピストも守ることができる。ただ,どこに限界設定の線引きをするかというのは,セラピスト自身の器というか限界もあって,そこを認識していないとセラピスト自身も脅威にさらされるし,かといってあまりにも限界設定が窮屈になると,プレイセラピーとしての広がりや深まりというものも制限してしまう。本質的には,子どもの状態を的確にアセスメントしつつ,子どもが展開するプレイが崩壊に向かわないギリギリのところで設定するのがベストだと思う。
限界設定は,そのクライエントさんに対しては,一度設定したらそう簡単に変えられない。プレイセラピーで言えば,ある時はダメだけどある時はOKとなると,子どもが混乱する。だから,どこで限界設定をするかは,絶えず見極めておかないといけない。セラピスト側としては,まず自分の限界がどこかをよくわかっておく必要があるし,基本的には自分の許容できる限界を超えてプレイを展開させてはいけない。その上で,自分の限界を広げたり深めたりしていく努力は必要なので,自分の限界にかかっている心理的な壁があるなら,やはり教育分析などを通して扱っていくことが必要だ。この意味で,プレイセラピストは一緒に遊べばいいから教育分析など必要ないというのは間違いだし,ある意味で大人よりもストレートにセラピスト側が揺さぶられることもある。そして,この限界設定はあくまでもクライエントとセラピストの間の関係性によって変わってくることが,重要な要素だと思う。
ケースカンファレンスなどで,プレイセラピーでこの対応はどうなのかという議論が生じることがあるけど,限界設定に関してその議論をしても,実際的にはあまり意味がないことが多い。そのケースのクライエントとセラピストの関係の中で,クライエントの条件とセラピストの条件が重なり合っているので,その設定が正しいかどうかというのはその関係の中でしか実際にはわからない。ただ,その後の展開を見ると,それが適切だったのかどうかはある程度まで判断することは可能なので,経験のある人や他者の視点で,その限界設定のもとでどういうことが起こっていたのかはわかるから,ケース全体を検討してもらうことには意味がある。ただ,限界設定がこうあるべきなどというマニュアルはないわけだし,そういうことを言う人はその人自身の限界を露呈しているのかもしれない。僕自身のプレイセラピーでは,やはりプレイを通した関わりの中で,戦略的な部分をベースにして直観的に,「ここは止める」という瞬間が浮かび上がってくる。その機微を伝えるのはなかなか言葉では難しいものがあるけど,言語的に整理できたらまた書きますね。