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Blogger's Avatar  2010-9-20 17:57
 毎度のことながら,更新が遅れてごめんなさい。学会発表が終わって,しばらく気が抜けたというか,ギリギリまで準備をしていたのでやりきった感があって,逆に振り返る時間が必要だったかなと思います。やりきったといっても,まあ反省点は残っているけど,今回はあまり緊張しないでやれたので,古武術の練習での心の持ち方が活かせるようになってきたかなという感じ。反省点ははまた次回に活かしていこうということで,今のところ来年も発表しようとは思っています。来てくださった方,改めてありがとうございました。よかったらまた,来年お会いしましょう。
 今回の発表で,事例を通した考察では,プレイセラピーに加えて他機関で療育が実施されるようになった影響で,クライエントが身につけた適応行動がロボット化してしまったことを通して,プレイセラピーにせよ療育にせよ,それを行う援助者の心理的な姿勢,あり方(being)が大きく影響を与えていくということを伝えようとしました。ひいては,クライエントさんとの関係性に関わってくる重要な点で,ある意味当然とも言えることではあるけれど,何か技法を用いようとかするときに,ついついずれていきがちなところでもあると考えてます。つまりは,クライエントさんに心を向けた関係性ではなくなって,技法に心が向いてしまってセラピストと技法との関係が主になってしまうということがあり得るわけです。基本中の基本ともいえることだけれど,絶えず気をつけていないとずれていってしまうと考えていて,それを伝えようと思った発表でした。その中で,ウィニコットのholdingなどに言及したんだけど,フロアから僕が「どのようにholdingしているのか」という質問があったので,補足を兼ねて書きたいと思います。
 そのときの答えは,「プレイセラピーはアクスラインから入ったこともあって,プレイセラピーの場で自由に遊べること,クライエントがその中で主体的に選択していけるようにすること,セラピーの場を守ることなど,基本的なことをしているだけ」というような感じでした。訊いた方としては,もっと技法的なことを訊きたいのかなとも感じて,ちょっと拍子抜けだったんじゃないかなと後で思ったんだけど,何をしているかと訊かれると,それぐらいしか答えようがないというか,この辺を言語化するのってすごく難しいなと感じた。holdingというのは,意識的・無意識的な両面を含めて,クライエントを包み込むような場を創っていくことと言っていいんじゃないかと思ってるから,すごく抽象的な次元で起こっていることなんだと思う。holdingの根本は,母性愛的な関わりの中から自然に表れてくる母子の関係性をウィニコットが記述したところにあるはずだし,セラピストは母親ではないけど,プレイセラピーの場全体を器として,セラピストの中にある母性的な部分を発揮することで,自ずから生まれてくるクライエントへの関わりが表れてくるはずだ。だから,具体的にこうするとかいう技法論にはならないように思う。
 例えば,スターンの情動調律なんかもヒントになるかもしれない。でも,セラピストが情動調律をやろうと思ってクライエントに関わるのと,セラピストの中の母性がクライエントに関わる中で,自ずから情動調律と言える言葉なり表情なりをするのでは,外から見た現象が同じ情動調律であっても,その本質は全く違うものになってくる。つまり,セラピストがholdingをやろうと思ってやるというより,結果としてholdingになっているというのが正しいと思う。母親がわが子にholdingをしようと思ってやっているわけではないのであって,ウィニコットの言葉を借りれば,わが子を前にして自ずから生まれる原初的没頭という関係性の基盤があって,そこにholdingという現象が生まれてくる。この順序が逆になっていると,ややこしいことになる。母性というのは偉大だ。セラピストがクライエントに対して,わが子のようにこの母性を発揮するというのは限界があると思うし,間違えば逆転移という形による弊害も考える必要はある。それでも,セラピストの中の母性というものを,セラピスト自身との関係において育んでいくことが,セラピストのあり方(being)を成長させていくことにつながると思う。

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