ここ1週間ぐらい体調が思わしくなくて,また大幅に更新が遅れてしまいました。お待たせしてごめんなさい。報告ですが,11月3日に設立総会が行われ「日本創作療法学会」が正式に設立されました。僕は理事に就任することになりましたので,学会の発展に微力を傾けていきたいと思います。「日本創作療法学会」は,「クリエイティヴ・セラピー」の日本語の「創作療法」を掲げる学会ですので,創作コラージュ療法を中心として,学術的な意味でもさらに発展していくことと思います。学会へのリンクは,「新着情報・お知らせ」の方から辿ってください。みなさん,よろしくお願いいたします。今回は,「心理療法と依存性」をテーマに書きます。
カウンセリング/心理療法を受ける目的は,クライエントさんによって様々で,基本的にはその主訴をニーズと捉えて,それに合った形で心理的援助を提供するのがセラピストの仕事ということになる。ただ,クライエントさんのニーズが,必ずしも改善のために的確ではないという場合も少なからず存在するので,そこはセラピストが主体的に方針を選んでいくことも必要になる。極端な例で言えば,「あいつを殺したい」と訴えるクライエントさんに,セラピストが「じゃあどうやって殺そうか」という対応はまずあり得ない。この場合は,殺したいほど憎いという気持ちや,そこに至る経緯を丹念に聴いていって,「それだけのことがあったらそういう気持ちになるのも無理はない」と共感していくことが原則だろう。こういう極端な例はいいとしても,結構微妙な要素が複合的に絡むのが,クライエントさんのセラピストへの「依存性」をどう扱うかということだ。クライエントさんを依存させて,ズルズルと長年にわたって継続しているセラピストもいる。そこに,セラピストの要因が絡んでいるとすれば,これは本質的にクライエントさんの役に立つところからは離れていると言わざるを得ない。
クライエントから依存されたセラピストというのは,「先生のおかげで生きていられます」というような言葉を投げかけられたりするけど,その関係性ではセラピストは「救済者」と言える役割(ロール)を与えられる。それがセラピストの無意識にある「救済者」願望(コンプレックス)を刺激すると,その構造にクライエントもセラピストも取り込まれてしまう。以前,「心理臨床の構造上の危険性」という記事で触れた,セラピストが権威づけられる構造は,こういうところにも存在する。いわゆる「メサイア・コンプレックス」を持っている人がセラピストを志向しやすいことの危険性を,以前に書いたこともあるけど,とにかくセラピストがそこに気づいていないと,無限ループみたいに抜け出せなくなる。セラピストになるトレーニング過程で教育分析を受けることが推奨されることの意味は,こういうところが大きい。僕は,「メサイア・コンプレックス」を持つ人はセラピストになるべきではないということが言いたいのではなくて,セラピストがそういった自分の無意識の様々なコンプレックス(一般的な「劣等感」の意味ではなく深層心理学の用語)に気づいて巻き込まれないことの必要性を強調しているだけなので,誤解しないでね。。
「救済者」ロールを与えられて(ユング心理学的には布置されて)いることにセラピストが気づいていれば,その「救済者」ロールを主体的に引き受けて,クライエントの依存性をきちんと扱うことができる。外から見ると同じような「依存」の構造をもっていても,その本質は天と地ほども違う。だから,長年継続しているケースが必ずしも質の悪い依存ではなくて,セラピストが自覚的に質のよい依存をクライエントに与えているというケースもある。例えば,パーソナリティ障害圏のクライエントさんなどは,小さい頃の親子関係のように質のよい依存を継続して与えられる必要がある。いわゆる「育てなおし」ということになるのだけど,その時には「救済者」ではなくセラピストは「養育者」のロールを取ることになる。「養育者」ロールが適切に作用すると,クライエントの「救済者」コンプレックス(願望)は「内なるセラピスト」へと少しずつ育まれていくことになる。まあ,文章で語るほど単純な話ではないけれど,とにかく,「依存性」というのはセラピストによって毒にも薬もなるし,関係性に大きく関与しているので,セラピスト自身の依存性(これが無意識に働くと共依存的にもなる)を含めて,自分自身をよく知ることが重要ということです。