当サイト「臨床心理士・盛田祐司」は開設から12周年を迎えました。放送大学に編入学したのを機に,「臨床心理士への道」と題してブログを書き始めた頃からの通算ですから,体系的に臨床心理学を学び始めて12年,干支がひと回りしたんだなあと改めて感慨を深めているところです。折しも,長らく関わっていたところから飛び立つことを宣言したのがこの変わり目でしたし,本来の自分らしく新しい方向性に向かって歩んでいくスタートラインに立ったような気持ちでいます。ということで,今回は僕にとっての「本来の自分」に関して書いていきたいと思います。
「心の主体」を取り戻して「本来の自分」に立ち帰ることを中心に掲げていく上で,僕にとっての「本来の自分」は,自由を求めるという志向性の強さが際だっていることだと思う。もちろん,組織の一員であればそのルールに沿って進めることは当然やっているし,臨床心理士としてもスタンダードなラインを大きく外れるわけではない。自由というのは,全く何も制限制約がないことではないし,ある種の枠組みの中で自由ということが守られるという側面もある。ただ,その制限制約という枠組みが自分にとって狭すぎると,その枠組みを広げる必要はある。そうでないと,自分を殺して生きなければいけない。そうすることも生き方のひとつかもしれないけど,僕はそれをやり続けると心が本当に死んでしまうと思う。自分を殺して生きているようなセラピストがクライエントさんのためになれるとも思えないし,僕が「本来の自分」を活かしてあげないと,クライエントさんが「本来の自分」を取り戻す手助けはできないと思っている。
社会に出ることや大人になることは,ある意味で様々な制限制約を課せられ,それを受け容れていく過程とも言える。それは心のバランスを取れるように成長するために必要なことであるし,社会の一員として生きていくためにも身につけていくことが必要だ。その過程を放棄して,自由という名のもとに他人に迷惑をかけるような生き方が許されるわけではない。ただ,現代社会というのは往々にして,その過程を過ぎてもさらに追い打ちをかけるように制限制約を課してくるし,それに耐え続けてきた人はその恨みを無意識的に他人や家族に制限制約を課す形でぶつけるという悪循環に陥る傾向にある。そのような社会を大人をとおして見ている子どもたちや青年が,その枠組みを放棄して飛び出そうとしたり,狭い範囲であってもその自由を守るために退却してその過程に踏み込もうとさえしなかったりという現象があるのは,多くのクライエントさんと出会ってきてその気持ちは理解できる。制限制約という枠組みの中で,自由に楽しく生きられる場を見いだせなければ,生きる意味や気力さえも失っていくだろう。
僕自身は,制限制約の枠組みを広げながら自分の自由を守るためにもがきながら何とか生きてきたように思う。臨床心理士になろうと思った時に,最初から開業の形を考えていたのも,余計な制限制約を課されることのない,自分が自由に決められて生き生きと仕事ができる場が必要なことを知っていたからだと思う。臨床経験を重ねていくうちに,クライエントさんにとっても,僕のセラピストとしての働きが自由であることが重要だと感じている。でもまだ,経済的な側面を中心として,開業したらしたで打破しなければならない制限制約はいくつも残っている。僕にとっての「本来の自分」を自覚してきたことで,自由を求めるための目標設定が明確になってくる。目標が明確になれば,それに向かって努力を傾けるエネルギーが自然にわき起こってくる。「本来の自分」は,頭で考えて作り上げた自己像ではなく,心の核とのつながりができて内から立ち現れるものだ。僕自身の「本来の自分」を発揮していくことが,クライエントさんの「本来の自分」を賦活することにもつながるはずだから,これからも自由を追求していきたい。