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Blogger's Avatar  2012-11-21 16:23
 秋も終盤という感じで寒さが増し,冬の訪れを感じます。北海道生まれですが寒さには弱いので,寒さに耐えて春の訪れを待つという心境ですね。冬ごもりというのはうつ状態ともよく似ていて,心の冬に耐えながら心身を休めて養分を蓄え,来たるべき春に備えるという感じで過ごすのがいいように思います。これは古来から言われる「養生」ということにつながりますが,今回取り上げる「修養」という言葉も,この「養生」の意味合いが含まれているようです。自らが生きることを養うという「養生」を修めるわけですから,「修養」は自らが生きることを養いつつ高め成長していく,生涯にわたる過程ということになると思います。今回は,そういった観点から心理臨床を考えたいと思います。
 症状というのは苦しくつらいもので,一刻も早くそこから逃れたいというのが心情ですし,悪循環が続くと自らが症状に支配されてしまうような状態になり,なくなってくれないならもう消えてしまいたいといったところまで追い詰められます。しかし,ストレスに対する急性反応のようならものならともかく,幼少期からの歴史が引き起こすパーソナリティ傾向や身体症状を含む慢性的な症状などは,そんなに簡単に変わるわけではありません。もちろん,その人が望んでそのようなパーソナリティ傾向や慢性症状を抱えているわけではないのですが,対人関係を主とした環境との関わりの中で,やむを得ず選んできた自らのあり方という側面があります。いわば,自らが生き残るために選ぶ必要があった生き方であるわけです。それは無意識的なプロセスであり,意識できる自分の生き方や価値観を変えることもなかなかに難しいのですから,無意識的なそれを変えていくことは,自分一人で行うのが相当に困難なことは自明でしょう。それを変えていくには,自分と向き合って自分を知り,そういった傾向や症状がある自らを受容していくことが必要になります。それは「養生」にもつながり自らを癒す力となり,「修養」という自らを高めていく段階に発展していくのです。

 科学は分割の発想が中心で,物事を細分化し対象化していきます。自分は外にいてそれを観察する立場となります。そうすると,症状も対象化され,自分の症状なのに外から見て「自分を苦しめるこんなものは自分じゃない,嫌だ,なくなれ!」と敵視します。症状が自らの無意識的なあり方の結果だとするなら,これは自分自身を否定していることになります。反対に,「修養」は融合の発想が中心で,すべてを自らのものとして受け容れ,「自分が選んだ結果とはいえ,こんなに自分を苦しめてしまった」と自らを慈しみ,それまでの自分のあり方を認めつつ,限界が来ているあり方を変革するプロセスに取り組んでいきます。ユング心理学では症状を,それまでの自分のあり方が偏ってしまい心の全体性から見て無理が生じていることを伝えようとする,無意識から発せられているメッセージのようなものと考え,症状と向き合ってそこに含まれている意味を見出そうとします。ユング心理学を身体症状との関連から発展させたプロセス指向心理学では,精神症状だけでなく身体症状の中にも無意識の発する意味を見出そうとします。これらは,日本的な「修養」の考え方に通じるものですし,日本人が創始した森田療法などは「修養」の文化を色濃く反映していて,「あるがまま」を重視して症状を受け容れ,自分の傾向と向き合いながら生きる方向へと導きます。

 症状の意味がわかると,無意識のメッセージとしての症状を出す必要がなくなりますから,結果として急速に症状がなくなったり小さくなったりします。「修養」は本来,症状をなくすることを目的としているわけではありませんが,結果として症状をなくそうと躍起になるよりもよほど早く改善されます。『北風と太陽』というお話を思い出して見てください。自分の奥にある無意識の立場からすれば,「なくなれ!」と北風を当てられれば絶対に症状を離さないようにし,「意味がある」と太陽のように理解されれば安心して症状を手放せるというものです。とはいえ,最初に書いたように,意識の側からすれば苦しくつらい症状と向き合うことは,一人ではなかなか難しく専門的なサポートが必要です。臨床心理学もいろいろな学派がありますが,僕は「修養」という観点から,クライエントさんが症状や自分の傾向と向き合っていくことをサポートしていきたいと考えています。この「修養」という観点は,僕自身が自分の傾向や症状と向き合う一環である「野口整体」を学ぶ取り組みの中から見出されてきたものです。僕自身も「修養」の道を歩んでいますし,心理臨床を通して「修養」をサポートする立場でもあります。自らの「修養」が進んだ分しか,他者の「修養」をサポートすることができないのは,ユング心理学でいわれる,セラピストが自らの無意識の理解を進めた分しかクライエントを援助することはできないということと重なります。ユング心理学でいう「個性化の過程」は,「修養」とも言えると考えていますし,これからも自らの「修養」を深めていきたいと思います。

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