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Blogger's Avatar  2014-5-26 18:38
 お待たせしてしまってごめんなさい。連休明けから何かと慌ただしく過ぎた感じで,僕自身の取り組んでいるテーマもあって,なかなかブログを書くところに気持ちを向けられずにいました。実は,一度書いた記事が消えてしまい,自分の想いを書くといったことについて振り返って内容を考え直したりしてもいました。今回は,「アイデンティティと主体」という内容で書いてみたいと思います。
 「アイデンティティ」というと,エリクソンの発達心理学的には「自我同一性」とされていて,成人に至る過程を通して取り組むことになる青年期の課題とされるものです。自分がどういう人間であるかを示すものを確立するということになるわけですが,多くの場合,広い意味での社会的役割と結びついていくと言えます。社会的役割というと,職業というのが一般的ですが,職業=自分という人は少ないでしょう。でも,「あなたはどういう人ですか?」と聞かれた時の属性として,職業や何らかの社会的役割を示すことが多いように思います。主に外から見て,その人を表すものが「アイデンティティ」となりやすい感じです。これに対して,「主体」というのは,その人そのものの働きと言ったらいいでしょうか。ここでは,主に内から見て,その人を表すものが「主体」であると,「アイデンティティ」と対比的に定義しておきます。

 この「アイデンティティ」と「主体」が一致していれば,心の安定は比較的保たれるのですが,なかなかそう上手くはいきません。発達心理学の「自我同一性」という用語は,この一致を指しているのではないかと思われますが,青年期の課題としては,とりあえずの自己規定という程度でしょう。昔は,職業選択というのが一生を左右するものでしたから,職業=自分という図式も成り立ったのでしょうし,女性の場合で相手の家に嫁ぐという文化も,夫の社会的役割を反映したり妻・母という外から見た役割を担うという意味では,職業に類似しています。ですが,現代は職業選択や社会的役割も多様化していて,配偶者選択も単純ではなく,女性が社会的役割を求めることも一般的ですので,青年期の「自我同一性」の課題というのは,提唱された時代とは意味合いが変わってきていると考えられます。当時は,「アイデンティティ」に「主体」を一致させるという感覚に近かったではないかと思いますし,それが大人になるということだったのでしょう。もちろん今でも,それが社会的な価値観として強い側面はありますが,「主体」というものが時代的に抑圧されてきて,最近は「主体」を確立しようという欲求が潜在的に大きくなっているように感じます。

 少し前から,「自分さがし」「本当の自分」といった言葉が広がっていますが,これは抑圧された「主体」が動き出している現象のように思います。周囲からはこう見られるけど本当はそうじゃないのが苦しい,というような悩みも多く聴きます。自分が振る舞っている外から見える「アイデンティティ」が,内から見える「主体」とずれてしまっているのですが,昔は中心が「アイデンティティ」にあったので,そこに合わせることが重要になっていたのが,今は中心が「主体」にあるので,「アイデンティティ」とのずれが強く感じられるのでしょう。でも,これまでの大人になる過程というのは,「主体」を育むようにはできていません。特に日本では,自分の考えや想いを内から引き出すような習慣が乏しく,外の基準に合わせることが訓練されます。さらには,空気を読むというような,流動的で推測の困難な基準に合わせることが重視されたりします。「本当の自分」は内から引き出されるものなのに,「自分さがし」という形で外に向かってしまうのです。自分の内にある「主体」に気づいてそれを育むということは,カウンセリング/心理療法でも重視していますし,そういう価値観を広めていくことを,社会的活動として進めたいと考えています。

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