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2つの学会発表は大きな支障もなく,無事に終了しました。まあ,学会前後はちょっと根を詰めすぎて体調を崩していましたが。なかなか強迫傾向はなくなることはないので,気がつくと身体を酷使しているという・・・まあこれがあるからそれなりに成果を上げられるんだと思っているから,自分を否定しているわけじゃないんだけど,自分のためにはもう少しバランスをとれるといいいなあという感じかな?日本心理臨床学会での発表は,今年で3年連続の3回目で,司会者の方の上手さもあって,発表内容も過剰に詰め込まずにちょうどいい感じにできたし,今までで最も建設的な議論が展開したという感想でした。とにかく,事例検討でも学会発表でも,自分が担当した事例を扱うのは,改めて事例を見直すことになるので勉強になりますね。
そんな中でも,平行して自分の内的なプロセスも進行していて,学会発表が終わるまでは忙しさであまり本格的に取り組めなかった部分が,ここのところ強烈に動いてきているので,個人的に大変になってきてる。かなりプライベートな内容なので,具体的なことは書けないんだけど,やっぱりセラピストでもある自分の心の動きというのは,担当してる心理面接の動きと何か通じるところがあるなあと思ってるところ。ユングなどの深層心理学では,クライエントさんの無意識とセラピストの無意識を含めて,二人の間で心的プロセスが展開するという考え方をするけど,クライエントさんの心的内容を扱っているようでいて,それはセラピストの心的内容をも扱っている場合が出てくる。例えば,クライエントさんの病理的な部分は,セラピストの中にも潜在的(顕在的なこともある)にあるわけで,心理面接の場面ではセラピストの潜在的な病理を自覚しつながっていることが重要になることがある。この自覚がないと,面接が深まってくるとクライエントさんの病理なのかセラピストの中の病理なのかの区別がつきづらくなる。逆に,セラピスト自身の病理性を自覚して面接場面以外でそれをきちんと扱って変化が生まれると,クライエントさんの病理にも変化が生まれたりもする。
そんな中でも,平行して自分の内的なプロセスも進行していて,学会発表が終わるまでは忙しさであまり本格的に取り組めなかった部分が,ここのところ強烈に動いてきているので,個人的に大変になってきてる。かなりプライベートな内容なので,具体的なことは書けないんだけど,やっぱりセラピストでもある自分の心の動きというのは,担当してる心理面接の動きと何か通じるところがあるなあと思ってるところ。ユングなどの深層心理学では,クライエントさんの無意識とセラピストの無意識を含めて,二人の間で心的プロセスが展開するという考え方をするけど,クライエントさんの心的内容を扱っているようでいて,それはセラピストの心的内容をも扱っている場合が出てくる。例えば,クライエントさんの病理的な部分は,セラピストの中にも潜在的(顕在的なこともある)にあるわけで,心理面接の場面ではセラピストの潜在的な病理を自覚しつながっていることが重要になることがある。この自覚がないと,面接が深まってくるとクライエントさんの病理なのかセラピストの中の病理なのかの区別がつきづらくなる。逆に,セラピスト自身の病理性を自覚して面接場面以外でそれをきちんと扱って変化が生まれると,クライエントさんの病理にも変化が生まれたりもする。
まず,今年2つめとなる学会発表のおしらせです。
■日本心理臨床学会第28回秋季大会
・題名:授業妨害を起こすアスペルガー傾向の男児とのプレイセラピー
−内的イメージの世界に参入することで敗者イメージが変容した過程
・日時:2009年9月21日(月)15:15〜16:45
・備考:参加資格は学会員のみとなります。
今回は,昨年の学会発表の中心テーマであった,発達障害,特にアスペルガー傾向をもつ児童へのプレイセラピーの有効性という点を引き継いでいます。昨年発表した事例では,内的イメージを豊かに表現してくれたことで,プレイセラピーもThが器となることで自然に展開されていました。今回は,内的イメージが勝負の中の「敗者」に投影されており,そのままプレイとして勝者−敗者という形式的(意識的)な軸で捉えてしまうと見過ごしてしまいやすいことが特徴の事例です。アスペルガー傾向のプレイセラピーの場合,象徴機能が未熟なために事物を対象とした具体的な形で表れやすく,通常より無意識に近い深いレベルでClの内的世界に参入する必要が出てきます。今回は,その過程を取り上げました。
■日本心理臨床学会第28回秋季大会
・題名:授業妨害を起こすアスペルガー傾向の男児とのプレイセラピー
−内的イメージの世界に参入することで敗者イメージが変容した過程
・日時:2009年9月21日(月)15:15〜16:45
・備考:参加資格は学会員のみとなります。
今回は,昨年の学会発表の中心テーマであった,発達障害,特にアスペルガー傾向をもつ児童へのプレイセラピーの有効性という点を引き継いでいます。昨年発表した事例では,内的イメージを豊かに表現してくれたことで,プレイセラピーもThが器となることで自然に展開されていました。今回は,内的イメージが勝負の中の「敗者」に投影されており,そのままプレイとして勝者−敗者という形式的(意識的)な軸で捉えてしまうと見過ごしてしまいやすいことが特徴の事例です。アスペルガー傾向のプレイセラピーの場合,象徴機能が未熟なために事物を対象とした具体的な形で表れやすく,通常より無意識に近い深いレベルでClの内的世界に参入する必要が出てきます。今回は,その過程を取り上げました。
今年は学会発表を2つやることにしてしまって,かなり大変なことになっています。まずは1つ目の概要です。
■日本人間性心理学会第28回大会
・題名:中途身体障害者の心理的回復過程におけるスピリチュアリティの萌芽
・日時:2009年8月29日(土)16:15〜17:45
・場所:法政大学多摩キャンパス 現代福祉学部棟3F302
・備考:発表論文やプログラムは下記URL(トップページ)からたどれます。
http://members3.jcom.home.ne.jp/jhp2009/
内容としては修論の未発表部分で,今までの雑誌論文や学会発表は修論の中の中心的な部分だったのに対して,関心は強かったものの慎重に扱うべきテーマだったので控えめに記述していたのが今回のテーマです。スピリチュアリティというテーマの扱いには,今でも慎重にとは思っています。あまりに多義的になりすぎて誤解を招く可能性があることや現実離れした観念的な方向に流れやすいことなど,いろいろと考えておかないといけないと思っています。経緯は上記の発表論文を見ていただければわかると思いますが,定義は「いのちの尊さを感じるような深い情感を伴う,時間・空間あるいは日常性を超えたつながりの感覚」としています。人間性心理学は人間の成長可能性について考えるという側面を持ちますし,スピリチュアリティという用語も人間の高次の人格を主に扱うものと考えています。
■日本人間性心理学会第28回大会
・題名:中途身体障害者の心理的回復過程におけるスピリチュアリティの萌芽
・日時:2009年8月29日(土)16:15〜17:45
・場所:法政大学多摩キャンパス 現代福祉学部棟3F302
・備考:発表論文やプログラムは下記URL(トップページ)からたどれます。
http://members3.jcom.home.ne.jp/jhp2009/
内容としては修論の未発表部分で,今までの雑誌論文や学会発表は修論の中の中心的な部分だったのに対して,関心は強かったものの慎重に扱うべきテーマだったので控えめに記述していたのが今回のテーマです。スピリチュアリティというテーマの扱いには,今でも慎重にとは思っています。あまりに多義的になりすぎて誤解を招く可能性があることや現実離れした観念的な方向に流れやすいことなど,いろいろと考えておかないといけないと思っています。経緯は上記の発表論文を見ていただければわかると思いますが,定義は「いのちの尊さを感じるような深い情感を伴う,時間・空間あるいは日常性を超えたつながりの感覚」としています。人間性心理学は人間の成長可能性について考えるという側面を持ちますし,スピリチュアリティという用語も人間の高次の人格を主に扱うものと考えています。
お知らせの方にも書きましたが,NPO法人日本クリエイティヴ・セラピスト協会の理事に就任しました。初めての理事会というものにも出たところで,何となく実感がでてきたところです。最近は少し余裕があるんだけど,かなり忙しいのが続いていたので心身に疲労が蓄積されてる感じで,休養や楽しむ時間を大切にしてます。
さて,事例検討会とかGSV(グループ・スーパーヴィジョン)なんかに僕はよく出るわけだけど,どうやら参加者側が発言するということが抑制される傾向があるということに最近改めて気づかされた。もちろん今までも,どこに行っても発言は控えめで,事実確認とか細部の質問などに終始して,自分なりの見立てや意見というのがとても少ないというのは感じていて,何十人と参加者がいても,そこまで突っ込んで発言するのは僕を含めた数人という感じだったりするので,違和感はずっとあった。そして,コメンテーターやヴァイザーの意見を聴いて学ぶという姿勢が強いんだということも感じていた。日本人的といえばそれまでなんだけど,後輩にあたる大学院生と話す機会があって,そんな話になったので違和感を感じてるのは僕だけではないなと思ったし,これは少し提言しておきたい。
まず,Cl−Th関係でいえば,事例検討会やGSVで事例を出す人はClの立場で,その他の人はすべてThの立場になる。どうも,コメンテーターやヴァイザーだけがThの立場だと思われている風潮があるようだけど,何らかの相談に訪れる人がClなわけだから,事例を出す人のみがClの立場であり得る。そこが明らかになれば,Clの事例を通した悩みなどについてThが支持したり助言をしたりするのがCl−Th関係であることは間違いがなく,自ずとするべきことは明らかになる。Thの立場である参加者は,事例を出したClがよりよい対応ができるように,また事例を通して成長できるように,応答するべきだと思う。そうでなければ,Cl−Th関係がそこに成り立たなくなる。先に挙げた後輩は,「事例を出して何のコメントもない時にどんな気持ちになるか考えてほしい」と発言しない人たちに対しての想いを話してくれたが,まさにその通り。事例を出したClに対しても,その事例の中のClに対しても,失礼に当たるのではないか?
さて,事例検討会とかGSV(グループ・スーパーヴィジョン)なんかに僕はよく出るわけだけど,どうやら参加者側が発言するということが抑制される傾向があるということに最近改めて気づかされた。もちろん今までも,どこに行っても発言は控えめで,事実確認とか細部の質問などに終始して,自分なりの見立てや意見というのがとても少ないというのは感じていて,何十人と参加者がいても,そこまで突っ込んで発言するのは僕を含めた数人という感じだったりするので,違和感はずっとあった。そして,コメンテーターやヴァイザーの意見を聴いて学ぶという姿勢が強いんだということも感じていた。日本人的といえばそれまでなんだけど,後輩にあたる大学院生と話す機会があって,そんな話になったので違和感を感じてるのは僕だけではないなと思ったし,これは少し提言しておきたい。
まず,Cl−Th関係でいえば,事例検討会やGSVで事例を出す人はClの立場で,その他の人はすべてThの立場になる。どうも,コメンテーターやヴァイザーだけがThの立場だと思われている風潮があるようだけど,何らかの相談に訪れる人がClなわけだから,事例を出す人のみがClの立場であり得る。そこが明らかになれば,Clの事例を通した悩みなどについてThが支持したり助言をしたりするのがCl−Th関係であることは間違いがなく,自ずとするべきことは明らかになる。Thの立場である参加者は,事例を出したClがよりよい対応ができるように,また事例を通して成長できるように,応答するべきだと思う。そうでなければ,Cl−Th関係がそこに成り立たなくなる。先に挙げた後輩は,「事例を出して何のコメントもない時にどんな気持ちになるか考えてほしい」と発言しない人たちに対しての想いを話してくれたが,まさにその通り。事例を出したClに対しても,その事例の中のClに対しても,失礼に当たるのではないか?
またもや更新が遅れました。お詫びのしようもありませんが,ごめんなさい。忙しい状況が続き,ストレスがかかることもあって,初めて帯状疱疹というものになりました。痛い痛いとは聞いてたけど,布が触れただけで痛いので,本当に大変でした。身体というのはいろいろなシグナルを出してくれるんだけど,忙しくしてたりすると素通りしがちで,ボディワークをする者としてはもっと自分の身体とコミュニケーションしなくちゃと反省もあり,まあいろいろと,前後に起こった出来事も含めて,自分を見つめ直す機会になったと思います。
さて,今回は題名通り「現場感覚」というものを最近よく考えるので,取り上げてみようと思います。臨床心理士というのは,臨床心理学に基づいて様々な理論や技法を学ぶわけですが,いざ現場に入ってそれを活用しようとすると,学んだことがそのまま通用するということは少ない。カウンセリング/心理療法というのは,基本的に1対1の関係で,枠という構造の中で考えられてきた部分が多くて,それを教育や医療・福祉といった組織やチームとしての構造ができている中で原理・原則通りやろうとすると難しいということは,たぶん現場に入っている臨床心理士だったら経験しているんだと思う。やはり現場では現場感覚というか,現場の中で臨機応変に考えていくということが重要になるので,頭でっかちに大学院で習った原理・原則を頑なに適用しようとすると,いろいろと現場では不都合が起こる。これから現場に入ろうとする人は,そういうことを踏まえておいた方がいいと思うし,僕自身のスタンスの確認も含めて書きますね。
例えば,スクールカウンセラーなどで学校現場に入ると,教員との関係や保護者が絡んでくるし,教育相談でも指導主事(基本的に教員)や保護者,医療現場なら医師をはじめ医療スタッフ,産業系だと産業医や人事関係者,まあいろいろな人との関係が絡んでくる。また,その現場でのやり方や,複数の心理職がいればその現場に合わせて工夫してきた歴史とか,様々な背景とか文化的なものがあって,その現場の構造というものができあがっている。現場に入ったら,その現場の背景や構造の中での枠というものを考える必要があって,1対1の面接構造が可能ではあっても,そこでの枠は,いわゆる大学院で学ぶような枠とは異なっている。原理・原則としての枠はやはり1対1の面接構造のみを考えた枠であって,現場の枠というのはその現場の構造をひっくるめた中での面接構造となる。
さて,今回は題名通り「現場感覚」というものを最近よく考えるので,取り上げてみようと思います。臨床心理士というのは,臨床心理学に基づいて様々な理論や技法を学ぶわけですが,いざ現場に入ってそれを活用しようとすると,学んだことがそのまま通用するということは少ない。カウンセリング/心理療法というのは,基本的に1対1の関係で,枠という構造の中で考えられてきた部分が多くて,それを教育や医療・福祉といった組織やチームとしての構造ができている中で原理・原則通りやろうとすると難しいということは,たぶん現場に入っている臨床心理士だったら経験しているんだと思う。やはり現場では現場感覚というか,現場の中で臨機応変に考えていくということが重要になるので,頭でっかちに大学院で習った原理・原則を頑なに適用しようとすると,いろいろと現場では不都合が起こる。これから現場に入ろうとする人は,そういうことを踏まえておいた方がいいと思うし,僕自身のスタンスの確認も含めて書きますね。
例えば,スクールカウンセラーなどで学校現場に入ると,教員との関係や保護者が絡んでくるし,教育相談でも指導主事(基本的に教員)や保護者,医療現場なら医師をはじめ医療スタッフ,産業系だと産業医や人事関係者,まあいろいろな人との関係が絡んでくる。また,その現場でのやり方や,複数の心理職がいればその現場に合わせて工夫してきた歴史とか,様々な背景とか文化的なものがあって,その現場の構造というものができあがっている。現場に入ったら,その現場の背景や構造の中での枠というものを考える必要があって,1対1の面接構造が可能ではあっても,そこでの枠は,いわゆる大学院で学ぶような枠とは異なっている。原理・原則としての枠はやはり1対1の面接構造のみを考えた枠であって,現場の枠というのはその現場の構造をひっくるめた中での面接構造となる。
GWにプライベートで大きなイベントがあって,無理に身体を動かして体調を崩したり(まあそれは自業自得だけど),パソコンがやたら重くて対処していたり,なんだかんだで更新が遅れました。ごめんなさい。腰痛はこの仕事の職業病らしいけど,多少の傷みだったのをイベントで悪化させてしまった。2日間にわたって跳びすぎ?首振りすぎ?何かは類推してください。
本題。「生きるって素晴らしい」みたいな人生讃歌らしき言葉を聞いてもどうもピンとこないのは何故だろう?と時々思う。まあ,基本的に人生は大変だと思っている人なので,全肯定されるとまぶしすぎるみたいな?別に,生きることを否定してはいないし,大変だと思いながらそれなりに楽しんでる部分もあるけど,もっと物事っていろんな要素があるじゃない?そういういろんなことひっくるめて「素晴らしい」と言えるまで達観した人ならいいんだけど,なんかお題目みたいに「人生って素晴らしいのよ!」みたいに言う人がいて,宗教っぽいなとか思っちゃう。あ,別に宗教自体は否定するつもりないけど,逃避的に宗教に走るというか,そういう感じ。それはあなたが素晴らしいって思いたいんじゃないの?とか思ってしまう。
本題。「生きるって素晴らしい」みたいな人生讃歌らしき言葉を聞いてもどうもピンとこないのは何故だろう?と時々思う。まあ,基本的に人生は大変だと思っている人なので,全肯定されるとまぶしすぎるみたいな?別に,生きることを否定してはいないし,大変だと思いながらそれなりに楽しんでる部分もあるけど,もっと物事っていろんな要素があるじゃない?そういういろんなことひっくるめて「素晴らしい」と言えるまで達観した人ならいいんだけど,なんかお題目みたいに「人生って素晴らしいのよ!」みたいに言う人がいて,宗教っぽいなとか思っちゃう。あ,別に宗教自体は否定するつもりないけど,逃避的に宗教に走るというか,そういう感じ。それはあなたが素晴らしいって思いたいんじゃないの?とか思ってしまう。
本格的に春という感じで暖かくなってきました。花粉症の方はつらい季節でしょうが,お大事に。僕は子どもの頃からアレルギー体質なんだけど,元々服用している抗アレルギー薬の作用のおかげか,花粉症という形ではあまり出てないです。さて,フォーラムの方で開業心理臨床についての話題が活発化してますが,その中で「社会性」という言葉が出てきたので,補足も兼ねて少し書きたいと思います。
「社会性」という言葉は,心理臨床に携わる人たちにも,その必要性はよく言われます。ただ,一般的に「社会性」といった場合,社会人としてのあり方とか社会生活を営む上でのスキルみたいなものを指すんでしょうが,心理臨床の場合はちょっと違うと思います。カウンセリング/心理療法の場としてクライエントさんと会っている時,そこは非日常の場になっているので,クライエントさんの非日常の場にいながら,どう日常とつながっていくかということが重要になるんだろうと考えています。もちろん,一般的な意味での「社会性」も身につけていなければ,臨床心理士だって社会人ですから,組織でやる以上好き勝手にやれるわけでもないので,できることなら職に就くまでにある程度の社会性は身につけておいてほしいと思っています。僕は社会人からの転向組ですけど,普通に大学院を出て臨床心理士になって仕事に就いたという人だと,社会性が乏しいと思うことも時々あります。それは無理もないことだし,僕だって社会に出た頃は結構はずれてたから人のことは言えないんだけど,専門性との兼ね合いということがあるので,臨床心理士の場合は少し一般社会人と事情が違うように思うんです。
「社会性」という言葉は,心理臨床に携わる人たちにも,その必要性はよく言われます。ただ,一般的に「社会性」といった場合,社会人としてのあり方とか社会生活を営む上でのスキルみたいなものを指すんでしょうが,心理臨床の場合はちょっと違うと思います。カウンセリング/心理療法の場としてクライエントさんと会っている時,そこは非日常の場になっているので,クライエントさんの非日常の場にいながら,どう日常とつながっていくかということが重要になるんだろうと考えています。もちろん,一般的な意味での「社会性」も身につけていなければ,臨床心理士だって社会人ですから,組織でやる以上好き勝手にやれるわけでもないので,できることなら職に就くまでにある程度の社会性は身につけておいてほしいと思っています。僕は社会人からの転向組ですけど,普通に大学院を出て臨床心理士になって仕事に就いたという人だと,社会性が乏しいと思うことも時々あります。それは無理もないことだし,僕だって社会に出た頃は結構はずれてたから人のことは言えないんだけど,専門性との兼ね合いということがあるので,臨床心理士の場合は少し一般社会人と事情が違うように思うんです。
今回の内容は,「日本臨床心理士会雑誌」No.60 に掲載された内容と関連していますので、臨床心理士の方でないとわかりづらいかなと思いますが,資格制度の中では重要な動きだと思うので感想や意見を書きたいと思います。なお,前回のブログで書いた内容は,同誌p.12より掲載されている僕自身の原稿に対する,補足的な内容となっていますので,併せてお読みいただけると幸いです。可能な範囲で,同誌を読めない人にもわかるように書いていきます。
日本臨床心理士会として,表題のような基本見解が出されました。内容の詳細はある意味では内部資料なので書かない方がいいと思うので避けますが,開業(ブログでは一般的なこの用語を使っています)するにあたって,必要と考えられる心理臨床の経験や研修,連携のためのネットワーク,開業の前提となる環境や条件などについて網羅的に挙げられたものです。また,将来的には登録制度を整備する方向ということも検討されているとのことです。感想として大ざっぱに言えば,内容的には妥当なんだろうと思います。
ただ,基準として経験年数とか研修時間数とか,量的な基準が中心になるのは,ある程度の目安になると思うんですが,クライエントさんにとって必要なのは質の問題,要するに信頼と実力の部分だと思うんですよね。その辺りをもう少し加えてもいいのかなと。例えば,SVをある程度義務づけるとすれば,そのヴァイザーがヴァイジーの心理臨床の質を評価するとか,一定以上の質を保っている人が開業していますという制度にしていく方がいいんじゃないかと。まあ,そういうことを言い出すと,今度はヴァイザーの質とか適正な評価方法ということについての検討が必要になるわけですが。私見としては,何年経験があるとか何百時間研修したとかは一定の基準にはなるけど,それが必ずしも実力につながるとは限らないと思っているので,質を基準にするということが大変なことを承知しつつも,量的なものではなく質的なものを扱う臨床心理士だからこそ取り組んでいく必要があると思っています。
日本臨床心理士会として,表題のような基本見解が出されました。内容の詳細はある意味では内部資料なので書かない方がいいと思うので避けますが,開業(ブログでは一般的なこの用語を使っています)するにあたって,必要と考えられる心理臨床の経験や研修,連携のためのネットワーク,開業の前提となる環境や条件などについて網羅的に挙げられたものです。また,将来的には登録制度を整備する方向ということも検討されているとのことです。感想として大ざっぱに言えば,内容的には妥当なんだろうと思います。
ただ,基準として経験年数とか研修時間数とか,量的な基準が中心になるのは,ある程度の目安になると思うんですが,クライエントさんにとって必要なのは質の問題,要するに信頼と実力の部分だと思うんですよね。その辺りをもう少し加えてもいいのかなと。例えば,SVをある程度義務づけるとすれば,そのヴァイザーがヴァイジーの心理臨床の質を評価するとか,一定以上の質を保っている人が開業していますという制度にしていく方がいいんじゃないかと。まあ,そういうことを言い出すと,今度はヴァイザーの質とか適正な評価方法ということについての検討が必要になるわけですが。私見としては,何年経験があるとか何百時間研修したとかは一定の基準にはなるけど,それが必ずしも実力につながるとは限らないと思っているので,質を基準にするということが大変なことを承知しつつも,量的なものではなく質的なものを扱う臨床心理士だからこそ取り組んでいく必要があると思っています。
トップページにもPRがありますが,「認定クリエイティヴ・セラピスト養成土曜講座」の体験版という形で,無料体験・公開講座「クリエイティヴ・セラピー」を開催することになりました。体験したからといって養成講座の受講をしなければいけないというわけではないので,気軽に体験してみてください。心理学やカウンセリングのことはほとんど知らない状態でも,専門家でも充分楽しめて学べる講座になるように企画していますので,たくさんの方のお越しをお待ちしております。
先日,といっても何ヶ月も前だけど,「私設心理相談」(要するに開業心理臨床)の研修会に行ってきました。それで,しばらくしてからその感想を書いてほしいと知り合いを通して依頼があって,自分の意見も含めて書かせていただいたので,それに関する話をしようと思ってます。例によって,ブログでは一般用語である「開業」という言葉を使わせていただきますので,(関係者の方)ご了承ください。研修会の感想はおいといて,自分の意見の部分を,もう少しざっくばらんに書きます。
臨床心理士に限らず,カウンセリング/心理療法の領域は民間資格が乱立状態で,数日程度の研修で資格が得られるお手軽なところから,学校的に1年程度のカリキュラムが組まれているところまでいろいろ。心理学を学びたいというニーズは,一時のブームは落ち着いてきているとは言ってもまだ結構あって,学びたい人が学べる場があるということはいいことだと思う。僕だって,認定クリエイティヴ・セラピストという民間資格の講師の一人でもあるわけで,コラージュや芸術療法,臨床色彩心理学に関心のある人にとってはそれを学べる場を提供している立場だし。問題にしたいのは,開業を前面に出しているカウンセラー/セラピストの民間資格で,もちろん誠実で良心的にやっている人もたくさんいるのは知っているけれど,結構な割合でクライエントさんを自分の心理的/物質的な欲求のために利用するようなカウンセラー/セラピストがいるということ。
僕が担当してきたクライエントさんの中には,過去にカウンセラー/セラピストにひどい扱いをされてきた人が時々いる。時々とは言っても,たぶん一般の人が想像する以上の高い割合だと思う。散々説教された,罵倒された,喫茶店やファミレスなど秘密を守れない場所で行った,個人的(性的を含む)関係に持ち込まれるなど,直接/間接を含めていろいろな話を聞く。どれもこれも,臨床心理士なら倫理規定に違反するようなことであるし,そういう教育がされていない,あるいはカウンセラー/セラピスト側の欲求を自身で自覚することなく(もしかしたら故意かもしれないがそんなものは論外)そういう言動をとっているのだろうけど,とにかく,そういう扱いを受けてきたクライエントさんの話を聴いていると,非常に憤りを禁じ得ない。
先日,といっても何ヶ月も前だけど,「私設心理相談」(要するに開業心理臨床)の研修会に行ってきました。それで,しばらくしてからその感想を書いてほしいと知り合いを通して依頼があって,自分の意見も含めて書かせていただいたので,それに関する話をしようと思ってます。例によって,ブログでは一般用語である「開業」という言葉を使わせていただきますので,(関係者の方)ご了承ください。研修会の感想はおいといて,自分の意見の部分を,もう少しざっくばらんに書きます。
臨床心理士に限らず,カウンセリング/心理療法の領域は民間資格が乱立状態で,数日程度の研修で資格が得られるお手軽なところから,学校的に1年程度のカリキュラムが組まれているところまでいろいろ。心理学を学びたいというニーズは,一時のブームは落ち着いてきているとは言ってもまだ結構あって,学びたい人が学べる場があるということはいいことだと思う。僕だって,認定クリエイティヴ・セラピストという民間資格の講師の一人でもあるわけで,コラージュや芸術療法,臨床色彩心理学に関心のある人にとってはそれを学べる場を提供している立場だし。問題にしたいのは,開業を前面に出しているカウンセラー/セラピストの民間資格で,もちろん誠実で良心的にやっている人もたくさんいるのは知っているけれど,結構な割合でクライエントさんを自分の心理的/物質的な欲求のために利用するようなカウンセラー/セラピストがいるということ。
僕が担当してきたクライエントさんの中には,過去にカウンセラー/セラピストにひどい扱いをされてきた人が時々いる。時々とは言っても,たぶん一般の人が想像する以上の高い割合だと思う。散々説教された,罵倒された,喫茶店やファミレスなど秘密を守れない場所で行った,個人的(性的を含む)関係に持ち込まれるなど,直接/間接を含めていろいろな話を聞く。どれもこれも,臨床心理士なら倫理規定に違反するようなことであるし,そういう教育がされていない,あるいはカウンセラー/セラピスト側の欲求を自身で自覚することなく(もしかしたら故意かもしれないがそんなものは論外)そういう言動をとっているのだろうけど,とにかく,そういう扱いを受けてきたクライエントさんの話を聴いていると,非常に憤りを禁じ得ない。
確定申告やら何やらで締め切りが多くて,なかなか更新ができていません。年明けから何とか更新を増やしていくつもりで考えているんですけど,改善できず申し訳ないです。出先で書いたりできるように,工夫を始めているところなので,もう少しお待ちください。・・・と言っても,月2回というところかもですが。
今回は,前回の抱負に続いて,今年もうひとつ新たに取り組んでいこうとしてる,自分の身体をもっとよく見たり感じたりしようということについて書こうと思ってます。前にどこかで書いたことがある気がするんだけど,僕は子どもの頃からアレルギー体質で,アレルギー性鼻炎と食べ物に対する特定不能なアレルギーがあったし,それを含めてあまり丈夫な方ではなかったのと運動が苦手ということがあって,自分の身体については劣等感を持っていたように思う。アドラー的に言えば,元々の仕事だったコンピュータ関係に進んだことは,知的能力で補償しようとしてきたってことかもしれない。臨床心理士は,ある意味で知的専門職とも言えるけど,知的に優れているから上手くいくってものでもないので微妙なところだけど。
今回は,前回の抱負に続いて,今年もうひとつ新たに取り組んでいこうとしてる,自分の身体をもっとよく見たり感じたりしようということについて書こうと思ってます。前にどこかで書いたことがある気がするんだけど,僕は子どもの頃からアレルギー体質で,アレルギー性鼻炎と食べ物に対する特定不能なアレルギーがあったし,それを含めてあまり丈夫な方ではなかったのと運動が苦手ということがあって,自分の身体については劣等感を持っていたように思う。アドラー的に言えば,元々の仕事だったコンピュータ関係に進んだことは,知的能力で補償しようとしてきたってことかもしれない。臨床心理士は,ある意味で知的専門職とも言えるけど,知的に優れているから上手くいくってものでもないので微妙なところだけど。